浮浪記

書籍



■上り潮
海獣に困っていた時代に、璃月のある無名の船頭の伝説を書いた本。

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■怒涛
響き止まない海の歌を背景に、船頭は運命の強敵と最期まで戦っていた。

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■下り潮
海面が穏やかに戻り、海風は微かに帰郷の歌を唄う…

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■第1巻
――波が上がる――
空に月が輝く頃に、船歌は流れ始める。

かつて璃月港には、軍船を操縦し海獣を狩る「船師」がいた。
船師達は勇気の象徴として、巨大な海獣の骨で船を装飾した。
だが、船員達の歌う船歌には、海獣を狩る内容は滅多に登場しない。
これは船師達が、己の功績をひけらかす事を嫌っているからではない。
海が不安定だった時代、血生臭い船歌を歌うのは、不吉とされていたからだ。

大剣を振るう一人の船師がいた。
彼は珊瑚礁や遠くの荒ぶる海域に赴いては、暴風と海獣の唸り声の中で横行闊歩していた。
暗黒が海の中も、彼にとっては狩場でしかなかった。
荒ぶる海獣も彼の戦利品となり、船に飾られるのだ。

だが、波を横断する船師には、凡人の苦楽は理解出来なかった。
彼の日常には、終わりの見えない捜索と殺戮、生臭い海風、そして重苦しい鯨の歌い声しかなかった。
船員は彼に対し、尊敬よりも恐れの念を抱いていた。
海草に絡みつく毒蛇のような息遣いに、恐怖を感じた。
荒ぶる海の真ん中で、船師の船は音もなく冷たく前に進んでいく。

ただ、高くそびえる船首に座る少女だけが、船師の目に温もりを灯す事が出来た。
波音に夢中な彼女は案内役だ。
少女は鯨と共に歌い、船を海獣のいる海域へと導く。

案内役の少女は、全ての海風と波に敬意を払い、海を祭る歌を口にする。

「私と共に巨鯨の唸りに耳を傾け、波の音を聞け」
「海流が方角を示す時、深海に向かって出航せよ」
「既に世を去った神霊を敬い、我が主を敬え」
「乱れた水流で海の地図を書かせたまえ」
「全ての魂を故郷まで導いたまえ」

歌声が止むと、船師は号令と共に出航する。
巨大な船がゆっくりと港を離れ、朝日に照らされた波へと進んでいく。

これがいつも通りの、船師漂流物語の始まりである。

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■第2巻
――荒波――
「共に暴風の巣窟に入り、冥海の唸りを聞け」
「海流が方向を示す時、渦潮に向かって進め」
「世を去った神の、子孫を祝福する声が聞こえる」
「彼女達を烈風と渦巻の乱舞から守りたまえ」
「海獣の巣穴を、勇士達の銛で揺り動かしたまえ」

天を引っくり返す暴風でも、船歌を掻き消す事は出来ない。
少女の歌声は荒波と一体になり、危険な暗流を避けるように船師を導く。
そして。
真っすぐ海獣が蠢く場所へと連れていくのだ。

渦潮を越え、稲妻と竜巻の中を進み、船は巨大な獣の海域に突入した。
雷光を背に、恐れを知らない船師は大剣を振り上げる。

船師の視線を追い、船員達はようやく、雷光が映し出す影は雲ではなく、連なる山のごとく巨大な体であった事に気付いた。
渦潮の中央にそびえ立つ恐ろしい影と比べたら、船に飾られている骨は幼獣のものに見える。

城壁のような体に向かって、人の持てる全ての力をぶつける。
船師の命令に従い、巨大な弓が次々と射られ、岩や銛が海獣の体に痛々しい傷を残した。

海獣は苦痛な咆哮を上げ、赤い波を巻き起こしながら全力で船を叩く。
軍船は海獣によって揺さぶられ、甲板に赤い塩水が流れ込み、歩くのも困難だった。
生臭い水に浸かりながら、船員達は全てを司る神々を罵りながら、ひたすら岩や銛での攻撃を続けた。

冷酷な船師が敵を恐れる事はない。
海獣の咆哮に、船首の少女は歌声で答える。
波の流れに従って、船は海獣を中心に円を描く。
鋭い牙と毒爪の攻撃に耐えながら、弓や銛、投石、そして人の血肉から発せられる恐怖や怒りをも獣にぶつけた。

海獣が疲労した頃には、海一面に切り捨てられた触手と爪が散らばっていた。
船師側も酷く消耗していた。
帆柱と射撃台は破壊され、半数以上の船員は既に海獣の腹の中だ。
船師の大剣も真っ二つに折られた。
これは最初から負け戦だと決まっていた。
幼子が巨人に挑むようなものだ。

重傷を負った海獣は敵の士気が下がった事を感じ取り、海面に浮き上がる。
鋭い牙が並ぶ口を大きく開けると、既に動けない船を一飲みしたのだ。

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■第3巻
――潮の息遣い――
黒い雲が月を覆い隠しても、船歌は止まなかった。

風が弱まった海面を、壊れた巨船がゆっくりと滑る。
海獣は螺旋型の口を大きく開け、体の底から雷のような唸りを上げた。
海獣は満足そうに、固い珊瑚で覆われた瞼を開く。
最後に、身の程知らずな相手の顔を見てやろうと思ったのだ。
だが、それが船師に弱点をさらけ出す事となってしまった。

船師は巨大な目の中に好機を見た。
そして海獣は、船師の小さな目の中に、深海よりも暗い心を見た。
最後の稲妻が空を走り、巨大な船は獣の歯の間で真っ二つに裂け、粉々になった。
竜骨の叫びは、波の音に飲み込まれていった。

そして、暗闇が戻ったかと思うと、怒り狂った咆哮が海面に響き渡った。

折れた剣が、海獣の眼球に深々刺さっていた。
船師は、剣が根元から再び折れるまで、何度も何度も獣の眼を刺した。
無数の爪に掴まれ、絶体絶命な状況下でも、船師は拳と歯と爪で戦っていた。
そして、海獣に八つ裂きにされようとした時――

聞き慣れた歌声が、生臭い風と共に流れてきた。
海獣の動きが鈍くなる。

「共に海の別れ歌を歌え、私の好きな歌を」
「海流が方向を示す時、私は彼を離れよ」
「世を去った主の呼ぶ声がする、私の帰りを待ちわびている」
「私と主の事を忘れずに、この旋律を復唱せよ」
「いつの日か、あなたは探しに来る、深い底に沈み眠る私を」
「――或いはその時、あなたも既に漆黒の渦に飲み込まれているのか」

海の巨獣は龍のような触手を、歌っている少女に向かって持ち上げる。
鋭い爪が皮膚を切り裂き、触手が腕に巻き付き、スカートが引き裂かれても、彼女は船師に別れの歌を歌い続けていた。

そして少女は、海獣にゆっくりと漆黒の海に引きずり込まれた。

海が不安定に暴れる時代では、漂流に生きる者は一日で命を落とす事も少なくない。
船師は見知らぬ商船の上で目覚めた。
船と全ての船員を失った彼に残されたのは、満身創痍の体と、船歌が永久に響く深海の夢だけだ――

「海流が方向を示すとき、俺は海へ向かい彼女の敵を討つ、波に魅入られた者よ……」